足利義詮書状
印刷 ページ番号1028949 更新日 2022年3月26日
尼崎の指定文化財
足利義詮書状(あしかがよしあきらしょじょう)
指定 尼崎市指定文化財
種別 古文書
数量 1幅
所在地 尼崎市南城内10-2
所有者 尼崎市
指定日 平成27年3月25日
室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)(1330-67)が3月5日付けで「薗殿(そのどの)」に宛てて出した書状で、足利義詮が「薗殿」に対して、このたびの「御忠節」を称え、家の財産や所領の保全・支配について支援・協力することを伝えたもので、義詮の花押(かおう)が据えられている原文書です。
足利義詮は父尊氏(たかうじ)の跡を継いで将軍になった翌年の延文(えんぶん)4年(1359、南朝:正平(しょうへい)14年)12月から、河内方面の南朝拠点を攻略するために、大軍を率いて尼崎にくだり、約半年間にわたって大覚寺を陣所として攻撃の指揮をとっています。当時の尼崎は、瀬戸内海有数の港湾が発達し、京都と西国とを結ぶ物流の要所でしたが、義詮の在陣は、尼崎が軍事上の拠点でもあったことを示すもので、中世の尼崎の歴史を考える上で重要な出来事でした。現在、寺町にある大覚寺所蔵の「大覚寺文書(兵庫県指定重要有形文化財)」には、在陣中に義詮が大覚寺に与えた寺領寄進状の写しや義詮の執事細川清氏(ほそかわきようじ)からの祈祷謝礼の書状が伝えられており、義詮は中世尼崎の歴史に関わりの深い人物の一人でもあります。
宛名の「薗殿」は、丁重な署判形式や丁寧な文言から、公家の園基隆(そのもとたか)(1314-74)であると考えられます。基隆は鎌倉時代末期から南北朝時代の公家で、建武政権期には後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の軍事にも携わっていましたが、南北朝分裂後は北朝に仕え、参議、権中納言(ごんのちゅうなごん)を歴任した人物です。
この文書が発給された事情や園家の家の財産や所領については関連資料が少なく、詳細は明らかではありませんが、義詮の花押の形状や類似の筆跡の文書などから、観応(かんのう)3年(1352、南朝:正平7年)3月に出されたものである可能性が高い文書です。当時の公家の日記などから、この時期に成立した一時的な南北朝合一が破られた際の戦乱との関連がうかがわれ、今後の政治史研究の重要な資料になると考えられます。尼崎に在陣するなど、尼崎ゆかりの人物である義詮の本人の花押がある古文書としては市内で唯一となる貴重な資料であり、当時の公家社会の様相や武家と公家の関わりを示す学術的な価値が高い資料として注目されます。
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