尼崎市人権啓発推進企画員 コラム

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印刷 ページ番号1005264 更新日 2020年3月9日

真実(ほんとう)を見る眼を

なかおゆきおしゃしん

人権啓発推進企画員 中尾 由喜雄

真実(ほんとう)を見る眼を

ネット社会と言われる今日、本当に便利な世の中になったものです。
ケータイ一つあれば辞書がなくてもワンタッチ。地図帳がなくても水先案内。
おいしいお店や人気のブランドも見放題。便利な情報があふれ返っています。
私のようなアナログ世代には及びもつきません。
しかし、一方では、フェイクニュースをはじめ、人権を侵す書き込みも後を
絶ちません。IT時代では、これまでにも増して、様々な情報について真贋
(しんがん)を見極める眼を養うことが重要になります。
また、地域社会を見ると、少子・高齢化や核家族化、ひとり親世帯の増加、
雇用不安を抱えた層の拡大、社会的孤立など、「人と人」の関係性の貧困が
深刻化しています。そしてこのような社会状況を反映するように、相模原市
の障害者施設殺傷事件や川崎市の児童ら20人殺傷事件、ごく最近では元農林
事務次官による長男殺害事件など、ここ数年でも痛ましい事件が相次いでい
ます。そこには、見えない背景や状況があると思います。今こそ、正しい情
報を見極める眼を養うとともに、”「人と人」がつながる社会”づくりに向け
た学習と実践が重要となっています。
2006年に中川喜代子先生(奈良教育大学名誉教授)がスタートさせた、尼崎市
人権啓発推進員研修・会議を私が受け継ぐこととなりましたが、”地域における
市民の積極的な交流と相互扶助のネットワークで、人権文化豊かなまちづくり”
の有用なリーダー養成に引き続き務めてまいりたいと思います。

幼少期の子どもたちに”愛”のまなざしを!

中川喜代子さん

虐待は子どもの脳を傷つける!

尼崎市人権啓発推進企画員 中川 喜代子さん

中川 喜代子さん:社会学者(文学博士)、奈良教育大学名誉教授
社会学の立場から、部落・都市・家族などに関する社会問題についての実態調査を中心とした研究、人権問題に関する日本人の意識や態度を把握などに携わるとともに、人権意識の高揚を図るための教育・啓発活動のあり方についても、参加体験型を中心とするヨーロッパにおける人権教育の具体的教育内容や教育方法等の紹介に努めるとともに、同和教育をはじめ人権教育・啓発の幅広い分野での研究・執筆活動を展開している。

 喜怒哀楽といった感情はもちろん、ものの見方や考え方、周囲の人たちや社会とのかかわり方、思いがけないこ
とや困難なことに出会ったときの対処の仕方など、私たちの毎日の思考や行動を支配しているのは、頭のなかにあ
る臓器「脳」です。脳は、過度なストレスによって”物理的に”傷つきます。友田明美・福井大学教授は、小児精神
科医として30年近い臨床研究・リサーチから、おとなの不適切なかかわりによって、子どもの脳が変形すること
を明らかにされました。
 人間の脳は、ゆっくりと成長し、時間をかけて生きるすべを習得していきますが、その発達過程において、外部
から影響を受けやすい非常に大切な時期ー胎児期、乳幼児期、思春期など、人生の初期段階に、親や養育者など身
近な存在から適切なケアと愛情を受けることが、脳の健全な発達には不可欠なのです。この時期に極度のストレス
を感じると、子どものデリケートな脳は、その苦しみに何とか適応しよう(生き延びるための防衛反応)として、
自ら変形してしまいます。その結果、脳の機能にも影響がおよび、正常な発達が損なわれ、(1)衝動性が高く、キ
レやすくなって乱暴、非行に走るとか、(2)喜びや達成感を味わう機能が弱くなるせいで、より刺激の強い快楽を
求め、アルコールや薬物に依存するようになったり、(3)愛され、褒められる経験が少なかったため、「自分はつ
まらない人間だ」と自己肯定感が低く、抑うつ状態になって自傷行為を繰り返すなど、子ども時代に、安心と安全
が確保された場所で過ごしていた人ならば、決して味わうことのない苦痛に満ちた人生を送らざるを得なくなるの
です。
 友田教授がアメリカの大学で、幼いころに体罰を受けた経験がある学生グループと、そうでない学生グループと
を被験者として、MRIによって脳の発達状況などを比較検査した実験結果から、ごく一部をご紹介しましょう。
 まず、幼い時に厳格な体罰を経験したグループでは、学びや記憶に関わっている「前頭前野」の容積や、集中力
や意思決定、共感などに関係する「右前帯状回」が減少していました。これらの部分が損なわれると、うつ病の一
種である気分障害や、非行を繰り返す素行障害につながるのです。
 また、性的被害を受けたグループでは、「視覚弥」のなかでも顔の認知にかかわる「紡錘状回」とくに「一次視
覚」の容積減少が目立ちました。性的に不適切な扱いを受けた被害者は、苦痛を伴う記憶を脳内にとどめておかな
いようにしているにではないか、と考えられます。
 さらに、食事・風呂・着替えなど子どもが毎日健やかに成長するために欠かせない身体的なニーズが満たされな
かった〈身体的ネグレクト〉とか、親子のスキンシップ(触れ合い)があまりにも少ない〈精神的ネグレクト〉など
、いわゆる「愛着障害」も子どものこころや脳の発達に大きく影響を与えています。子どもは親の腕に抱かれ、親
と見つめあい、微笑みあうことで、安心感、信頼感を身体で覚えていき「愛着」の感覚が健やかに育つことで、成
長と共に少しずつ外の世界へと踏み出していけるのです。
 親に愛されているという自信と安心感さえあれば、健全にこころの成長を遂げていくことができます。小児精神
科の研究では、愛着障害があると、子どものこころが不安定になるばかりか、脳神経の一部においても正常な発達
が阻害されてしまうことがわかっています。その結果、成人してからも健全な人間関係を結べない、達成感への喜
びが低く、やる気や意欲も起きないなど、さまざまな問題をかかえてしまうことになります。子どもに対して、ス
マホ育児をしないために、お父さんやお母さんは眠りにつく前、今日は子どもに何回触れたか、どんな声かけをし
たかを振り返る習慣をつけてくださるよう願っておます。

 最後に、子どもの脳に大きなダメージを与える言葉のDV₌暴言についてふれておきましょう。両親間の暴力・暴言を見聞きする「面前DV」も精神的虐待と認識されるようなり、2017年度に全国の児童相談所が対応した子ども
の虐待13,778件の54%を占める「心理的虐待」のうち、約半数が「面前DV」となっています。「面前DV」を目
撃した人は、脳の後頭部にある「視覚野」の左半球一部の容積が増加するとか、単語の認知や夢を見ることに関係
している「舌状回」という部分の容積が、正常な脳に比べ、小さくなっているなど、暴言の程度が深刻かつ頻繁で
あるほど、脳への影響が大きくなっています。脳の研究以前にも、夫婦間のDVを目撃した経験がある子どもは、
知能や語彙の理解力に影響を受けることが知られていましたが、トラウマ反応が最も重篤なのは「DV目撃と暴言
による虐待」の組み合わせなのです。
 子どもの人格を否定する言葉は「しつけ」ではありません。子どもは親から評価があっれこそ健やかに育ちま
す。子どもの面前では激しい夫婦喧嘩は控えましょう
 悲しいことですが、子どもに対する虐待は2018年も増加の一途をたどっています。今年(2018年)上半期、虐待
をうけているとして全国の児童相談所に通告した18歳未満の子どもは37,113人で過去最高でした(警察庁2018年
10月4日発表)。年間過去最高の約65,000人となった昨年の上半期より2割以上多く、年間7万人を上回るペース
です。警察庁は、社会の関心が高まり、警察への通報や相談が増えたことが背景にあるとみていますが。
 最も多かったのは、言葉による脅かしや無視など子どもの心を傷つける「心理的虐待」で、全体の約7割を占め
る26,415人(前年同期比5,009人増)。うち、子どもの前で配偶者らを暴行したり、罵倒したりする「面前DV」が
6割強の16,869人で、この統計を始めた2012年の上半期の6.9倍にのぼっています。(朝日新聞2018.10.4夕刊
一面)
 厚生労働省は、児童虐待防止の強化に向けて今国会に向けての「児童福祉法」等「虐待防止関連法案」の全容を
固めました。改正案には千葉県野田市の小学4年生女児が自宅で死亡し、両親が傷害容疑」で逮捕された事件を受
けて、親権者や児童福祉施設長らが「しつけ」として子どもに体罰を加えることの禁止も明記していますが、父親
の暴力に対して母親も同調するといった子どもに対する虐待の背景に、保護者間での支配関係やDV(家庭内暴力)
が潜んでいることも少なくありません。[注1]
 DV(家庭内暴力)には、仕事や生活の悩み・苛立ちなどから夫が妻や子どもに八つ当たりする事例が少なくありませんが、暴力の対象とあれている人びと(配偶者や子どもたち)が私たちの周辺にいるとおもわれる場合、隣人
として、例えば、何らかの措置ができる機関・施設の紹介をするとか、適切な情報を伝えるとか、民生児童委員
や身近な隣人などが手を差し伸べることで当事者が少しでも冷静に向き合えるように支援することはできないこ
とでしょうか。
 また、児童福祉法第25条では、「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した場合には、速やかに、これを市
町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福
祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない」とすべての国民に通告する義務があることを規定して
います[注2]から私たちが住む地域で(?)と思われるときには、私たちにはそのことを関係機関に知らせる義務が
あるのです。
 1989年11月20日に国連総会で採択され、1990年9月2日に発効した「子どもの権利条約」は日本でも1994年
5月22日から効力が発生しました。「子どもの権利条約」では、すべての子どもが、(1)「生きる権利」「育つ
権利」を保障されていることを明記しています。子どもたちは、まず命を守られ、もって生まれた能力を十分に
伸ばして成長できるよう、医療や教育、生活への支援などを受けることを保障されています。
 「子どもの最善の利益を!」という条約の基本的理念が危うくなりつつある日本社会に生きる市民として、私
たちにいま何ができるのか?を、この機会にぜひ問い直していきたいと思います。
[注1]詳しくは、〈虐待の背景DV/支配〉4児の母「殴らないと殺される」との見出しで、報道された朝日新聞
(2019年3月14日)の記事を参照してください。
[注2]児童福祉法第25条の規定に基づき、児童虐待を受けたと思われる児童を発見した場合、全ての国民に通告
する義務が定められています。児童福祉法第25条(要保護児童発見者の通告義務)要保護児童を発見した者は、
これを市町村、都道府県に設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設
置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない(抜粋)。児童虐待の防止等に関する法律第6条
(児童虐待に係る通告)平成16年の改正で「虐待を受けた児童」から「児童虐待を受けたと思われる児童」に改め
られました。児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する
福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談
所に通告しなければならないのです。

 

幼少期の子どもたちに”愛”のまなざしを!

 

 いま、日本社会では、子どもの6人に1人(約140万人)が公的な就学援助を受けているなど、子どもの貧困が大きな社会問題となっています。子どもが貧困世帯に育つということは、なぜ問題なのでしょうか?この世に生を受けた子どもたちはみんな、それぞれ充実した豊かな人生を生きる力を身につけるために教育を受ける権利を持っています。しかし、子どもが育つ家庭の暮らし向きと学力との間には明確な相関関係があり、小学校入学時点ですでに社会経済的な状況を背景とした格差が存在することが調査によって指摘されています。
 格差は学力だけでなく、健康、精神的安定、意欲など、子どもの生育環境に深く関わっているのです。ノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者ジェームズ J. ヘックマンは、今日のアメリカでは、どんな環境に生まれるかが不平等の主要な原因の1つになっていて、「アメリカ社会は専門的な技術を持つ人と持たない人とに両極化されており、両者の相違は乳幼児期の体験に根差している。恵まれない環境に生まれた子どもは、技術を持たない人間に成長して、生涯賃金が低く、病気や十代の妊娠や犯罪など個人的・社会的なさまざまな問題に直面するリスクが非常に高い。機会均等を声高に訴えながら、私たちは生まれが運命を決める社会に生きているのだ。」と指摘し、「生まれた環境が人生にもたらす強力な影響は、恵まれない家庭に生まれた者にとって、ひいてはアメリカ社会全体にとって悪であり、数多くの市民から社会に貢献する可能性を奪っているのだ。」と、近著『幼児教育の経済学』(2017年東洋経済新報社2017年刊)で述べています。日本でも同じことが言えるでしょう。
 ところで、公民権運動が盛り上がった1965年、アメリカでは、「貧困との闘い」として、教育の機会均等の理念に基づき、「結果の平等」を目指し、社会的・文化的に恵まれない子どものための補償教育計画のひとつとして、ヘッドスタート計画が創設されました。ヘッドスタートとは、子どもたちが小学校に入学する段階で、”頭をそろえて”公平なスタートをさせることです。就学後の段階で、これまで知的・情緒的発達や学業成績の上でハンディがあるとされた黒人の児童など不遇児を、就学前教育によって差を縮めようとする試みですが、すべての子どもが、学校教育、とくに義務教育に就学できることよりも、学校教育終了時における「結果の平等」こそ大切であり、この終着点における平等は、カリキュラム上の平等、学力格差の是正、学業達成上における人種間・階層間の平等を意味しています。この理念により、補償教育はより中味の濃いものとなりました。
  なぜなら、「知的能力の発達上の不利」が「経済上の不利」として再生産されていく、すなわち、「低い教育機会」→「低い雇用機会」→「低い社会階層」という悪循環をどこかで断ち切る必要があるからです。
 

 ヘッドスタート計画は、1965年の夏から全米各地の「児童発達センター」を中心にして行われ、黒人家庭の子どもが参加幼児全体の4割、白人が3割、障がい幼児も1割参加したといわれてます。(因みに、ヘッドスタート計画はその後もずっと継続し、1982年時点では全米で約40万人の子どもが参加している)計画は、教育、健康、栄養、福祉、両親(保護者)教育から医療まで広範囲にわたり、それを小学校や幼稚園の教師、保母、大学生が中心となり、医師、栄養士、ソーシャルワーカー等、地域社会の人びとの協力を得て、指導にあたりました。
 ノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者ジェームズ J. ヘックマンは、1960年代にミシガン州で、低所得のアフリカ系の58世帯の子どもを対象に実施された「ペリー就学前プロジェクト」や1970年代に生まれたリスク指数の高い家庭の恵まれない4歳の子ども111人を対象に実施された「アベセダリアンプロジェクト」の対象となった子どもたちについての30歳・40歳までの追跡調査の結果から、就学前教育を受けた子どもは、受けなかった子どもよりも学力検査の成績が良く、学歴が高く、特別支援教育の対象者が少なく、収入が多く、持ち家率が高く、生活保護受給率や逮捕者率が低かったという情報を紹介しています。
 また、1995年にベティ・ハートとトッドリスレイが42の家族を対象として実施した教育調査で、子どもが1時間に話す言葉の数(語彙)が、家庭の環境によって大きく異なることを明らかにした調査結果などの科学的研究結果を紹介しています。さらにもうひとつ、子どもの人権に関連して、ジェームス J. ヘックマンは、家庭内暴力や虐待、ネグレクトといった幼少期の悲惨な体験が成人後にもたらす影響について調査したロバート・アンダ、ヴィンセント・フェリッティらの研究チームの調査結果に注目。子ども時代のそうした体験が、成人してからの病気や医療費の多さ、うつ病や自殺の増加、アルコールや麻薬の乱用、労働能力や社会的機能の貧しさ、能力的な障がい、次世代の能力的な欠陥などと相関関係があることを紹介して、幼少期の逆境的経験がもたらす悪影響は著しいこと、子どもたちの生育期の環境の重要性を指摘しています。
 ヘックマンは経済学者ゆえに、恵まれない子どもの幼少期の生活を改善することは、経済効率や労働力の生産性を高めるうえで、単純な経済的援助を行うことよりもはるかに効果的であると主張しているのです。持つ者と持たざる者とのあいだの、認知的スキル(いわゆる学力など)および非認知的スキル(肉体的・精神的健康、根気強さ、注意深さ、意欲、自信など)の格差は、幼少期の逆境が原因となる部分があり、子どもがどれほどの逆境に置かれているかは、子育ての質によって測られます。両親の収入や学歴といった昔ながらの”ものさし”は子育ての質と関係はしますが直接的な原因となるわけではありません。(家族に経済的援助を行うことが、必ずしも恵まれない子どもの「環境を向上させるわけではない)。つまり、大切なのはお金ではなく、愛情と子育ての力であり、成果は子育ての質や幼少期の環境を高めることによって導かれるのであるから、子どもたちに対する社会政策は、家族を尊重し、多様な文化を受け入れ、適応性のある幼少期に重点をおくべきだということです。
 政治の課題ではありますが、私たちも将来を託す子どもたちに、そして困難な状況にある家庭や保護者に、愛情ある ”まなざし” を注ぎ支援することが大切ではないでしょうか。
 おわりに、人生で成功するかどうかは、認知的スキル(いわゆる学力など)だけでは決まらず、非認知的スキル(肉体的・精神的健康・根気強さ・注意深さ・意欲・自信など)も欠かせません。それどころか、認知的な到達度を測定するために使われる学力テストの成績にも非認知的スキルは影響します。認知的スキルも、社会的・情動的スキルも幼少期に発達し、その発達は家庭環境によって左右されます。とりわけ、両親の収入や学歴などといった要素よりも、生活の質こそが最も基本的な問題であり、そうした家庭環境は世代を超えて連鎖・蓄積される傾向があるとヘックマンが指摘していることを付け加えて、みなさんのご賢察に期待したいと思います。

多文化社会共生のキィコンセプトは寛容性

私たちが、自分たちとは違った民族や自分たちとは異なったグループに対して、“偏見”を抱いたり、“差別”しようとする場合、自分たちと他の人びと、自分たちのグル-プと他の人びとのグル-プとの違いこだわる場合が少なくありません。例えば、現在でもしばしば耳にするのは、マンションなど住宅を賃貸したいと思って不動産仲介業者に依頼しても、「部屋は空いているけれど、「欠点が1つある。○○人ということや(国籍が違う人には貸したくない)」「外国人では後でもめごとがあっても困る」「外国人は習慣も違うので、トラブルがあったらいけない」「自治会や(同じマンションの)入居者が嫌がったら困る」などといった家主さんの言い分です。あの人たちとは「皮膚の色がちがう」、「言葉がちがう」、「生活習慣がちがう」、「意見や価値観がちがう」など自分たちが一緒にやりたくない、同じマンションに住んでほしくないと回避したりする行動や意識を合理化する理由づけに「異質性」が強調されることが多いのです。しかし、人・もの・情報が短時間に世界を駆け巡るグローバルな現代社会にあって、自分たちとは異なる民族・文化・情報などに拒否反応を示していたら、一体どんな生活になることでしょう。
昨年2015年11月、パリで発生したテロによる劇場爆破事件でかけがえのない最愛の妻を奪われたフランスの男性が、イスラム過激派の容疑者を「君たち」と呼び、 「君たちを憎まない。君たちは素晴らしい人の命を奪った。かけがえのない人、私の最愛の人、息子の母親を君たちは奪った。君たちが誰か知らないし、知りたいとも思わない。君たちは死んだ魂だ。憎しみという贈り物を君たちにはあげない。怒りで応じてしまったら、君たちと同じ、まさに無知に屈することになる」 「息子と2人になった。もう君たちにかまっている暇はない。メルビルが昼寝から目を覚ますから一緒にいなければならない。まだ17カ月。この子がずっと幸せで自由に生きていけば、君たちは恥を知ることになる。だから、君たちを憎むことはしない」というメッセージをフェイスブックに投稿しました。「平和へのメッセージをありがとう」と大きな反響が起こり、18世紀フランスにおいてカトリックと新教徒が激しく対立し、異端を許さない不寛容な社会に対して警告したヴォルテールの『寛容論』がベストセラーとして再び脚光を浴びています。ヴォルテールは「君の意見には反対だが、君が自分の意見を言う自由は命を懸けて守る」と宣言し、「寛容の敵」には「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」と価値の転換を求めたのです。異端の徒を排斥する風潮は現代の私たちの社会にも、例えば、ヘイトスピーチや性的少数者への偏見など日常的に存在しています。
<寛容性>とは、「違っていること」に対してどれだけ心を開いて受け容れることができるかということなのです。そこで、人権の尊重と深くかかわっている「寛容性」について、フランスの子どもたちが学習している絵本を紹介しながら、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

地球上に住む私たち50億(当時)の人びとは、みんな違っている!
いま、この地球上にはたくさんの人びとが暮らしており、2000年には60億(現在は70億を超えました)になっていることでしょう。この人びとが手をつなぐと赤道を160周する、それはまた、月と地球との距離の16倍以上の長さです。この世界にひとりとして同じ人はいません。私たちはみんな違った存在、それぞれユニークな存在なのです。という叙述(じょじゅつ)に始まり、それぞれ独自のシルエットをもち、それぞれ異なった肌の色、目の形、瞳の色を持っている。私たちが身にまとう衣服も、毎日口にする食べ物も、住む家もそれぞれの国によって異なっています。世界中の人びとはみんな違っており「ひとりとして同じ人間はいない」ことをごく当たり前の事実として受け止めることができれば、「皮膚の色が白いか」「金持ちであるか」「障がいをもっているかどうか」といったいくつかの限られた基準だけで、その人びとが「優れている」とか「劣っている」といった評価をするのは、まったく愚かでバカげたことだと、子どもたちが気づくようになることを期待しているのです。

みんなちがった存在だが、人間としての“思い”は同じ
世界中の人びとは、やりかたは違っても、「ゲーム(遊び)が大好きなこと」、それぞれのやり方で「お祭りを楽しむこと」、「文字や記号・身振りなどでお互いの意志を伝えあう(コミュニケーション)こと」、そして尊敬する人のことを忘れず、銅像・切手として、地名や橋・道路などに故人にちなんだ名前を付ける(例:ケネディ空港)などで面影をしのぶのです。

私たちは、限られた命を生きているのに、なぜ身分や階級にこだわるのでしょう
私たちはみんな同じ地球という惑星に住み、同じ空気を吸い、同じ太陽の下で日向ぼっこをしているではありませんか。そしてみんないずれは死んでいくのに…と、違いにこだわる人間の愚かさを風刺しています。

多様な文化や生き方を尊重すれば、私たちの生活は変化に富んだ豊かなものになる
紙面の関係で、具体的な絵を示せなくて残念ですが、絵本は、「違っていること」を嫌えば、ビルの形も色も、電車やバスの色も、人びとの服装もみんな同じ、単調な社会が出来上がりますが、違いを認めてこれを受け容れば、私たちの社会はバラエティに富んだ活気のある社会になるでしょう、と結んでいます。

「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)

私と小鳥と鈴と
私が両手を広げても、 お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のやうに、地面を速く走れない。
私が体をゆすっても、きれいな声は出ないけど、あの鳴る鈴は私のやうに、たくさんな唄はしらないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって,みんないい。

みなさん、オープンマインドで生きようではありませんか!

写真7
日本においては「せかいのひとびと」という名前で株式会社評論社より出版されています。

子どもの命を守るために‐命はリセットできない‐

【はじめに】
2011年3月11日に発生した東日本大震災という絶望の危機から、私たちは、人間の社会を形成する上で、最も重要な価値は「人間の生命である」こと、言い換えれば、私たちの生命の安全を保障されることは、人権のなかでも最も大切な権利であることを学びました。また、「絆」とか「寄り添う」という言葉が語り継がれ、人間と人間との「生」を共にする「共生意識」や、人間の社会に生ずる共同の不幸や共同の困難に対して、傍観者として手を拱いて見ているのではなく、その解決に社会のメンバーとして参加しなければならないという「参加意識」についても、あらためて実感したと思います。このような認識のもとに、「子どもの生命の安全をどう守るか?」という今日的課題について考えてみましょう。
 解放感いっぱいの夏休み、寝屋川市の中学1年生男女2人が消息を絶ち、女子生徒の遺体に次いで、数日後には男子生徒も遺体となって発見されるという悲しく凄惨な事件が発生しました。防犯カメラが深夜未明の駅前商店街を歩く2人の映像を捉えていました。
 この痛ましい報道に接して、どのように感じたか、どうすればこのような事件をなくすことができるのかなどについて、いろんな年齢層の大人たちに率直な意見を聴取してきました。聴取した意見を要約してみましょう。
まず、中学1年生といえば、やっと大人の入り口にさしかかり、背伸びしたい年齢とはいっても、まだ大人の保護を必要とする頼りない年齢です。そのような子どもを、深夜まで街を徘徊させていいのだろうか?彼らの保護者たちは、門限を決めたりしていないのか?あのようなことになったのには、保護者の責任が大きいのでは?といった意見が、60歳代以上の人びとから多く寄せられました。40歳代~50歳代前半の人びとからは、今日の日本社会では、親、とくに母親も生きるのに精一杯で夜遅くまで働いていて帰宅が遅く、子どもたちと団欒する時間がない家庭も少なくないなど門限を厳しくはできない事情もあるのでは…、子どもたちも、家に帰っても話し相手もなくつまらないし、気の合った仲間と一緒に過ごしたいと考えるのも否定できない…といった意見が多く、また、ほぼ同じ年代の子どもをもつ人は、深夜未明に人通りの少ない商店街を徘徊している子どもたちを警察は補導してくれないのか、といった疑問と願いがある一方、徘徊する子どもたちに気軽に声をかけにくい社会になりつつあることも問題ではないだろうか、と言った意見も示されました。

【子どもの第一保護責任者である親が果たせないときは,社会・国が支援!】
ところで、『子どもの権利条約』(日本ユニセフ協会抄訳)は、第5条で「親(保護者)は、子どもの心やからだの発達に応じて、適切な指導をしなければなりません。国は親の指導する権利を大切にしなければなりません」と規定し、子どもの第一義的保護責任者で、親がその責任を果たし得ない場合には、社会/国家が支援するとしています。ここでの“子ども”とは、18歳未満のまだ自力で生きることが困難な、したがって、親の保護を必要とする年齢の子どもたちの権利がほんとうに保障されるためには、第一義の保護者である親が(もし親にその能力がない場合には国が親を支援するかたちで)その責任を果たすことが不可欠な条件であるとしています。近年クローズアップされてきている<子どもの貧困>と関わって,母親が家計主担者となっている母子家庭の場合には,親の保護責任を問えない事例も少なくないでしょう。しかし、親には、子どもに対する第一義的保護者としての権利(親権)が認められていますが、同時に、子どもに最善の利益を与える義務/責任を負っているのです。つまり、権利と責任とはセットになっているわけですから、少なくとも子どもの命を守り,その健全な育成のために適切な生育環境を整える責任は負うべきですが、個々の家族の経済的事情などから十分かつ適切な生育環境を期待できない子どもたちに対しては、社会や国が何らかの形で、それを支援しなければなりません。

【子どもの生命の安全を保障するために】
子どもたちにとって心安らぐ“居場所”を私たち=社会が提供できる手立てはないのだろうか?家族の規模の縮小化・女性の就労・ひとり親家庭の存在など、日本の社会構造の変化のなかで、子どもの生命の安全を保障するためにはどうすればよいのか?という課題について、この際、きわめて大胆かつ思い切ったアイデアを提案したいと思います。市民のみなさんの率直なご意見を期待しています。

【提案】
夜になっても家に帰れない/帰りたくない子どもたちの“居場所”として、コンビニの協力を求めるという提案です。今やコンビニは、地域社会にとってとても身近で便利な施設となっており,夜間,塾帰りに立ち寄る子どもたちも少なくありませんが、他面、子どもたちにとってはちょっと“怖いお兄さん(高校生?)たち”がたむろしているところもあることを前提にして、子どもの“居場所”にするために検討したい課題をいくつか考えてみましょう。
(1)コンビニで買った食品をお店で食べられる「イートイン」の席(スペース)を子どもたち専用に設定してもらう。
(2)“怖いお兄さん”対策として,地域の大学生とかおとなのボランティアの協力を求めること。
(3)“居場所”としての開設時間を決め、遵守させること。
(4)協力してくれるコンビニには、≪安全な居場所≫のロゴマークを考案し、コンビニの入り口付近に掲げてもらう。(5)そのロゴ・マークの看板があるコンビニには、管轄の警察の補導担当の警官が定期的に巡視する。
(6)後述するCSR(企業の社会的貢献)に積極的なコンビニに協力を要請し、広く地域社会の人びともできるだけその当該コンビニの顧客として協力すること。現に、コンビニなどでインターネットをしたり、読書などをしている青少年がいたり、インターネットが利用できるコンビニもあります。
(7)最近は、イートインのスペースやインターネット環境が整備されているコンビニもあり、夜間にコンビニのお弁当を愛用するいわゆる“夜型人間”の元気な高齢者や、インターネットや読書をしている青少年などに、子どもたちの見守りの役割を担うボランティアとして協力をお願いすることなども視野に入れてよいのではないでしょうか。コンビニの駐車スペースを利用しているタクシーやトラックの運転手も、いざというときには,見守りの役割を担ってくれるでしょう。
(8)最小限必要な費用については、財政難を理由に支援を躊躇するであろう行政をアテにしなくても、当該地域の自治会や、趣旨に賛同してくれる人びとの浄財を期待したいものです。
近年、企業の社会的責任(CSR)という言葉が重要な意味を持ってきています。端的にいえば「できる会社は人に優しい」ということ、つまり、CSRの基本は人権の尊重ということです。従業員に・地域に・消費者に「優しい」企業というCSRへの評価は、企業の社会的業績として、売り上げや株価にも反映されますが、利益を追求するだけでなく、社会存在として社会に与える影響に責任をもち、市民や地域の要請に応え、より高次の社会貢献や、情報公開や対話を自主的に行なうことが企業には求められています。

【青少年の“居場所”づくりに、まず一歩を】
身近なところで一例をあげましょう。人びとの安全を守るという点では、すでに、マクドナルドは、企業の社会貢献の一端として、地元の警察や地域の方々とも協力し、子どもや女性が街頭で危険を感じたり、犯罪に巻き込まれそうになったりしたときに、助けを求めて駆け込める緊急避難所(子ども110番の家)の推進に協力しているのです。
この際、尼崎市内にあるたくさんのコンビニの中から、それじゃあ、我が社が青少年のための“居場所”づくりに、とにかく一歩踏み出そうか!と名乗り出てくださるオーナーさんの出現を待っています。
いろいろ検討しなければならない課題はありますが、いまこの瞬間も、安全な“居場所”を必要としている子どもたちに、万全なものでなくても、とにかく私たちおとなができること、私たちの地域ができることへの取り組みをスタートさせたいものです。

このページに関するお問い合わせ

総合政策局 協働部 ダイバーシティ推進課
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