小田の見どころ(歴史スポット・注目スポット)

ポスト
シェア
LINEで送る

印刷 ページ番号1002619 更新日 2023年4月3日

小田の旧跡や名所などについて、ご案内いたします。

ぜひ、小田地区へお越しの際には、いたるところで見られる歴史を楽しんでください。

廣濟寺

廣濟寺

1714年(正徳4年)日昌上人が再興したお寺です。廣濟寺には、江戸時代の劇作家、近松門左衛門の墓所があります。
詳しくは、都市魅力創造発信課のホームページをご覧いただくか電話でお問い合わせください。
電話は6489-6385です。

近松門左衛門墓所(久々知1丁目4)

近松門左衛門墓所

日本のシェークスピアと言われる偉大な劇作家で、その墓所は久々知廣濟寺にある。近松は、当時親交の深かった日昌上人を訪ね、執筆活動を続け、「曽根崎心中」など名作を残しました。享保9年(1724)72歳で没す。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

猪名庄遺跡(潮江1丁目16)

猪名庄遺跡

潮江再開発の折、掘削途中に縄文・弥生時代の遺物を発見。「東大寺領猪名庄絵図(天保勝宝8年)」の場所として、奈良時代の荘園にかかわる遺構を発見した。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

遊女塚

遊女塚

1207年(建永2年)の春、法然上人が讃岐へ流罪の途中、神崎の津に立ち寄られた。5人の遊女(宮城野、大仁、小倉代、刈藻、忍)は上人の法話を聞き、入水自殺をした。村人は哀れんで、川辺に塚を建てて供養をしました。大江匡房は「遊女記」の中で、神崎は「蓋し天下第一の楽地なり」と書いています。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

金毘羅さんの石灯籠

金毘羅さんの石灯籠

昔、航海の安全を図るため、神崎の津に木製の燈台が置かれていましたが、港が下流に移り燈台が廃止されました。1804年に、小田村、岸田屋治兵衛等が中心となり、神崎の津の問屋仲間や宿屋主などが寄付をして今の石灯籠を建てました。竿の中央には海の安全を祈願し、金毘羅大権現と刻まれています。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

浄光寺(じょうこうじ)

じょうこうじ

浄光寺は、真言宗善通寺派の寺院で、空海がこの地に立ち寄り天長年中(824-834)に創建したといわれています。『太平記』によると康安2年(1362)に南朝方の楠木正儀と争った摂津守護代箕浦俊定の陣所となったとされており、同寺蔵の「浄光寺縁起図」(市指定文化財)にはこの合戦で焼失する堂舎が描かれています。また、荒木村重が信長に背いた天正7年(1579)にも戦火により焼失して寺院は衰退しますが、本尊は兵火や災害により転々としながらも不思議と同寺に戻ると伝えられています。

管公足洗いの池

管公足洗いの池

延喜元年、菅原道真公が筑紫へ流罪の途中、長洲の地に逗留された。そのとき今の長洲天満宮境内の小池にて足を洗われたとか。また管公は鶏を愛し、管公筑紫への出発のときを延ばしたと、言い伝えられる。以後この地にては養鶏と葱の栽培をしないと言われる。長洲小学校校庭には管公「船繋ぎの松」が残されている。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

菅公舟つなぎの松跡

船つなぎの松

長洲小学校北門わきには、菅公船つなぎの松跡がある。道真が船をつないだ松の木があったといい、石碑が立っている。元の松は枯れてしまい、今は若い松が植えられている。

金楽寺貝塚(金楽寺2丁目17)

金楽寺貝塚

吉備彦神社境内裏にあり、奈良時代から鎌倉時代の貝塚遺跡で、無数の貝殻のほか、土錘、緑釉陶器、皇朝十二銭が出土した。この地が都と関係があり、貨幣による経済活動をした漁民集落であったと考えられる。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

矢文石(久々知1丁目3)

矢文石

久々知須佐男神社(妙見社)、天徳元年多田(源)満仲公権進による妙見社境内にある。由来不明なるも、一説に源満仲公が石に足を掛け、弓を射たところ、矢の落ちた場所が、今の川西多田地区であったといわれ、多田源氏の発祥という。(多田神社)(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

残念さんの墓

残念さんの墓

元治元年、長州藩の中間、山本文之助は禁門の変で薩長武士として京都で戦った。形勢不利となり、何とか国へ報告をと守りの堅い関所を逃れ、神崎川から辰巳の船着場まで来たが、囚われの身となり、その獄中「残念じゃ、残念じゃ」と大声で叫び自決しました。村人たちは大いに同情して墓標をたて、供養しました。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

馬橋(次屋2丁目13)

馬橋

荒木村重を討とうとした若者が逃げる途中村人に見つかり、密告され、白馬とともに殺された。亡骸は橋の袂に埋められた。それ以後、村人この橋のところに来ると白馬と若武者が現れ、人々を驚かせた。村人が白馬と若武者を丁重に葬ると以後亡霊は出なくなったと。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

宿場町神崎(神崎町)

宿場町神崎

神崎の宿は中国街道・有馬街道の基点として、その宿場町として栄えた。元この地には本陣がおかれ、札場が設置されていた。問屋・宿屋が軒を連ね、一大歓楽街でもあった。今は寂しい町ではあるが、幅の広い大通りが当時の面影を残す。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

尼崎藩領界碑(西川2丁目13西川八幡神社内)

尼崎藩領界碑

この領界碑は、注連柱(しいめばしら)の移建中(昭和60年8月2日)に発見され、地元の人の談話から判断すると、旧西川村にあった3基(旧字桶之口・新堤・山ノ下)のうちの桶之口にあったものと考えられます。
宝永8年(1711)の松平氏入封間もなくこの時期に、入組領の多い川辺・武庫郡西部及び莵原都内に建立され、明和6年(1769)上地後は整置されたものと思われます。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)

義人弥次右衛門の碑(次屋1丁目)

義人弥次右衛門の碑

旗本青山の所領であった、次屋・浜・潮江村百姓は代官の悪政に抗議し、直訴をした。浜村庄屋弥次右衛門は江戸送りとなり、元文4年(1739)江戸にて獄死した。義民伝中の人。碑は次屋の伊邪那岐神社境内にある。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)

寺江亭跡(杭瀬寺島2丁目1)

寺江亭跡

平安時代末、平氏政権の有力者の五条権大納言藤原邦網が築いた別邸が寺江亭です。彼の娘が六条・高倉・安徳天皇三代の乳人(めのと)でしたので、清盛の下で権勢をふるうことができたのです。
邦網は、神崎川の川尻に別荘をもち(寺江にあったので寺江亭と呼ばれる)、多くの貴人らを招いていました。寺江は尼崎にちかい大物とも考える説がありましたが、尼崎より約2キロメートルの地と記された当時の日記もあり、塩野義製薬株式会社の工場建設のときに、かなりの礎石が採取されましたので、当地が跡地と推定されています。また、建物の創建は、治承3年(1179)から4年にかけてのものとみられています。
記録によると、川から直接邸内へ舟に乗ったまま入ることができ、建物の豪華さは、京都の屋敷にひけをとらないと記されています。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)

左門橋?左門殿橋?

左門殿橋

左門殿川は治水工事で秀でた尼崎藩主戸田左門氏鐡公が開削されたもので、公の名前が付けられている。尚、佃島へ渡る橋も杭瀬からは左門殿橋と名付けられていた。何故か現在は左門橋となっている。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)なお、近くの阪神バス停留所の名前は「左門殿橋」になっている。

東洋紡績神崎工場跡(今福1丁目)

東洋紡績神崎工場跡

明治33年(1900)1月に設立された大阪合同紡績株式会社は、大正2年(1913)、この地に神崎工場を建設し、翌年から操業を開始しました。大阪合同紡績株式会社は、昭和6年(1931)3月に東洋紡績株式会社に合併され、神崎工場も同社の工場となりました。同年の神崎工場は、敷地面積約30万平方メートル、労働者数3千数百人におよぶ大工場でした。昭和20年(1945)6月15日、尼崎市は大空襲をうけ、神崎工場も被災し、工場は全焼しました。戦後、工場の一部は厚生施設として利用されましたが、昭和25年(1950)4月に閉鎖されました。その後、工場の跡は兵庫県住宅供給公社杭瀬団地となり、現在に至っています。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)

小田支所前地下道の壁画

小田支所前地下道の壁画

2001年11月に小田メイクアップ委員会が主催して、「夢」をテーマに住民参加でペインティングしたものです。(長洲中通1丁目6)

東洋精機株式会社本館(尼崎の登録文化財)

東洋精機株式会社本館(尼崎の登録文化財)

長洲本通1丁目14に所在する木造2階建て(コンクリート造地下付き)の建築物で、1941年(昭和16)の竣工です。設計者は宝塚ホテルなど、阪神間で数多くの建築物の設計を手がけた古塚正治(ふるづかまさはる)です。内装も建築当初の姿をよく残しています。(本市ホームページ「尼崎の登録文化財」より)

王子製紙の石臼?回転砥石(GPグラインダーストーン)

王子製紙の石臼?回転砥石(GPグラインダーストーン)

このストーンは、昭和24年12月から昭和39年8月まで、神崎工場で稼動していたGP製造機械のグラインダーストーンです。GPの製造方法は、回転砥石に丸太を押し付け、摩砕してパルプにする方法で、この機械をグラインダーと呼び、木材からの製紙法としては19世紀半ばからとされ、もっとも古いと言われています。(王子製紙株式会社設置の説明板より転記)(常光寺4丁目3)

赤いだるまポスト

赤いだるまポスト

なつかしい赤いだるまポストが今福2丁目10にあります。郵便局では「郵便差し出し箱」というのだそうな。近所の子ども達は、ポストによじ登ったり、抱きついたり、遊び道具のひとつであったそうです。

大物公園のD51

大物公園のD51

毎月第3日曜日(青少年の日)に開放されています。午前10時から正午、午後1時から4時(東大物町1丁目1)

金楽寺フラワー通り

金楽寺フラワー通り

株式会社尼崎工作所(金楽寺1丁目6)の塀が花の写真で彩られ、道行く人の目を楽しませています。表面は特殊フイルム加工され、雨が降っても大丈夫。思わぬ副産物として、ポイ捨てがなくなり、周辺の美化に一役かっています。

怪獣現る!記念公園

怪獣現る!記念公園

尼崎市政70周年記念モニュメント「AMAMAMA」です。
(西長洲町1丁目4)

「梅川」の像

「梅川」の像

JR尼崎駅より北約2キロメートルに位置する広済寺に眠る江戸時代の劇作家・近松門左衛門の代表作品のひとつで、今も人の心をとらえてはなさない名作「冥途の飛脚」のヒロイン「梅川」を、文楽人形のイメージで制作したものです。制作にあたっては、文楽人形遣いで重要無形文化財保持者(人間国宝)の吉田文雀さんのご指導をいただきました。(説明板より転記)(潮江1丁目2)

UFO?

UFO?

JR尼崎駅北のアミングデッキの屋根の一部です。この下に「梅川」の像があります。

中世ヨーロッパの騎士の兜?いいえ旧キリンビ-ル尼崎工場の一部です。

旧キリンビ-ル尼崎工場の一部

これは、ハウベ(ドイツ語「Haube」で「帽子」の意味)と呼ばれる麦芽を乾燥させる設備の排気塔の一部で製麦工場の屋外に設けられ、キリンビール尼崎工場(大正7年から平成8年)のシンボルとなっていたものです。またレンガは同工場の冷凍機室の壁の一部として使われていたものです。(説明板より転記)(潮江1丁目5)

神崎川堤防のペインティング

神崎川堤防のペインティング

神崎川メイクアップ委員会が平成15年から平成16年に、地元企業、学校、地域団体との協働で描いたもので、神崎の渡しにちなんだ、松、鯉、渡し舟、花火、燈篭、帆掛け舟、天秤かつぎ、カモの絵が600メートルにわたって並んでいます。(神崎町)

有馬街道をほうふつとさせる壁画

有馬街道をほうふつとさせる壁画

ダイセル化学工業株式会社が正門を通る有馬街道にちなんで、工場の塀に描いたもので、松、渡し舟、帆掛け舟、馬子と馬が描かれています。(神崎町12)

この石なんの石?葭島(よしじま)公園に置かれている謎の石

葭島(よしじま)公園に置かれている謎の石

神崎川堤防の改修工事の際に川底から回収されたもので、灯台の基礎に使われていたものではないかと言う説があります。(神崎町)

このページに関するお問い合わせ

総合政策局 小田地域振興センター 小田地域課
〒660-0802 兵庫県尼崎市長洲中通1丁目6番10号
電話番号:06-6488-5441
ファクス番号:06-6488-5459
メールアドレス:ama-oda-chiiki@city.amagasaki.hyogo.jp