近松門左衛門
印刷 ページ番号1005767 更新日 2022年10月27日
近松門左衛門(1653から1724年)の本名は、杉森信盛と言います。
近松は、人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した日本が誇る劇作家です。今でも多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演上映され人びとに親しまれています。
尼崎とのかかわり
近松は1706年の春、永年住み慣れた京都から大阪に移り住み、大阪の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留していました。
船頭や行商人、旅人たちから全国各地の話を聞き集め、それを題材として作品を執筆していたと伝えられています。その船問屋が、尼崎市の久々知にある広済寺を1714年に再興した住職・日昌上人の実家と言われています。日昌上人と近松は親しく交際していたことから、広済寺の再興には建立本願人となって大きく貢献します。
1716年9月に近松の母親が亡くなったときも、広済寺で法要を行い、供養のために色紙(しきし)などを納めています。この寺とのつながりが深かった様子が伺えます。
このように、近松と尼崎とのかかわりは、晩年の十数年間と思われます。1724年11月22日、72歳で生涯を終え、広済寺の墓(国指定史跡)で眠っています。
広済寺と日昌上人
広済寺開山如意珠院日昌上人(にょいじゅいんにっしょうしょうにん)は、大阪の寺島(その後の松島で、現在の大阪市西区千代崎1丁目から3丁目あたりが「松島」にあたる)にあった船問屋、尼崎屋吉右衛門の二男として生まれました。若い時に出家し、信仰の道は、正運院日達上人を師としていました。近松は、日昌上人と親交があったことから、しばしば広済寺を訪れていたと言われています。
近松部屋
広済寺本堂の裏には、「近松部屋」と呼ばれる近松の仕事部屋が明治の末まであり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。
近松の墓所
広済寺境内には、高さ約48センチメートルの緑泥片岩の自然石の近松の墓(国指定史跡)があります。
表に近松と妻の法名(戒名)が並んで刻まれているのが特徴です。
また、近松作品の成功祈願のため、演劇関係者もしばしば訪れます。
年譜
年代 | できごと |
---|---|
1653(承応2)年 | 近松、福井で出生 |
1655(明暦元)年 | 父とともに現在の鯖江市へ移住 |
1667(寛文7)年 |
父が浪人し、京都へ移り住む |
1683(天和3)年 | 「世継曽我」上演(劇作家として世に認められた最初の作品) |
1703(元禄16)年 | 「曽根崎心中」上演(最初の世話物) |
1706(宝永3)年 | 京都から大阪へ移り住む |
1707(宝永4)年 | 「五十年忌歌念仏」上演(作品の中に「尼崎」が描かれている) |
1711(正徳元)年 | 「冥途の飛脚」上演 |
1714(正徳4)年 | 日昌上人が尼崎の広済寺を再興。近松は建立本願人として貢献する。 |
1715(正徳5)年 | 「国性爺合戦」上演 |
1716(享保元)年 | 近松の母没。広済寺で法要 |
1718(享保3)年 | 「日本振袖始」上演 |
1720(享保5)年 | 「心中天網島」上演 |
1721(享保6)年 | 「女殺油地獄」上演 |
1724(享保9)年 | 1月「関八州繋馬」上演(絶筆)。11月22日、近松没(72歳) |
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