近代の尼崎

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ページ番号1006721 更新日 平成30年2月21日

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 明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりました。藩主の桜井氏は東京へと移住し、残された士族も多くは困窮するなど、城下町は一時期活気を失います。こうしたなかで、徐々に近代化・都市化が始まりました。

産業・交通の発達

 まず、明治7年(1874)には、官設鉄道が大阪・神戸間に開通し、現JR尼崎駅である神崎ステーションも開設されました。続いて明治24年には尼崎・伊丹間を結ぶ川辺馬車鉄道が開通し、のちに摂津鉄道・阪鶴鉄道を経て、現在のJR宝塚線となりました。さらに明治38年には阪神電気鉄道本線、大正9年(1920)には阪神急行電鉄(阪急電鉄)神戸線・伊丹支線、昭和元年(1926)には阪神国道(国道2号線)が開通するなど、交通網が次々と整えられていきました。

大正5年(1916)頃の尼崎紡績

 産業の面では、農業や漁業も引き続き盛んでした。しかし、綿や菜種といった近世以来の商品作物や、城下町の繁栄を担った中在家の魚市場などは、明治の半ばころから徐々に衰退していきます。

 その一方で、新田地帯では綿にかわって尼いもと呼ばれる甘藷の生産が広がり、海岸部一帯が一面のいも畑となるなど、特産品も様変わりしていきました。

 城下町も徐々に活気を取り戻し、特に旧中国街道の道筋にあたる本町通商店街は、明治後半頃から昭和戦前期にかけて、阪神間でも有数の活況を呈していました。こうしたなか、尼崎と大阪の資本家が明治22年(1889)に設立した尼崎紡績(のち大日本紡績、ユニチカとなる)をはじめ、明治半ば頃から工業も発展していきました。

写真:大正5年(1916)頃の尼崎紡績(『御大典紀念献上 尼崎市写真帖』より)

尼崎市の誕生

尼崎市役所

 産業・交通の発展に対応して、行政機構も変化していきます。明治22年の町村制施行時には、現尼崎市域には城下町を中心とする尼崎町と、小田・大庄・立花・武庫・園田という5か村が設置されました。このうち尼崎町が、人口の増加や都市化の進展などにともなって、立花村の一部を合併して大正5年(1916)に尼崎市となりました。

写真:尼崎市役所(尼崎市立地域研究史料館所蔵昭和戦前期の絵はがきより)

都市化の進展と社会問題の発生

昭和12、3年頃の尼崎製鋼所

 昭和期に入ると、工業化・都市化の流れは一層進んでいきました。なかでも、浅野財閥の浅野総一郎らが昭和4年(1929)に設立した尼崎築港株式会社による、尼崎市・大庄村臨海部の築港開発により、臨海部には発電所や鉄鋼産業などを中心とした重化学工業地帯が形成されていきます。また、阪神沿線に加えて東海道線や阪急沿線にも、新たな住宅地開発が始まりました。

 都市化の流れは、水道の整備や学校施設の拡充、住宅・医療・福祉などといった新たな都市問題、社会問題を生み出していきます。工場煤煙や、地下水汲み上げによる地盤沈下といった公害被害も、この頃から激しくなってきました。社会問題の深刻化は、それに対する社会運動をも生み出します。急速に都市化する工業都市尼崎は、同時に日本における労働運動、農民運動の中心地の一つでもありました。

写真:昭和12、3年頃の尼崎製鋼所(『尼鋼十年史』より)

都市計画と戦災

市域の変遷

 こうした急速な変化に対処していくためには、行政の側でも広域的な施策や都市計画が必要でした。すでに大正13年(1924)には、現尼崎市域を範囲とする尼崎都市計画区域が決定され、昭和期に入ると道路計画や土地区画整理が実施されていきました。また昭和11年(1936)には尼崎市と小田村が解消合併して新たな尼崎市となり、昭和17年には大庄・武庫・立花村を合併しました。

 昭和12年に始まる日中戦争から、昭和16年開戦の太平洋戦争にかけては、戦時国家体制が強まるなか、尼崎の工業生産も軍需生産の比重を増し、市民生活全般も戦時体制へと組み込まれていきました。昭和20年に入ると、3月以降は米軍による空襲被害も受けるようになり、特に6月1日と15日に大阪・尼崎地域を襲ったB29による空襲では、西長洲・金楽寺・杭瀬・大物・西本町をはじめ、各所に大きな被害がありました。

図:市域の変遷(『尼崎地域史事典』掲載図をもとに作成)

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