「あまがさき」という地名の由来

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印刷 ページ番号1006717 更新日 2020年8月3日

摂津職河辺郡猪名所地図


 「あまがさき」(尼崎)という地名が歴史上はじめて登場するのは、平安時代の末から鎌倉時代初めころのことです。このころ書かれた「大物(だいもつ)浜・長洲(ながす)浜請文」(真福寺文書)という史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎が久安年間(1145~51)ころに新たに形成された土地の名前であることがわかります。現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたりが、もともとの尼崎という地名の場所にあたります。 さきの古文書に出てくる長洲浜というのは、当時の猪名(いな)川・神崎川の河口に近い場所で、奈良の東大寺や京の鴨社の荘園がありました。大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所です。

 尼崎は、鎌倉・室町期の記録には「海士崎」「海人崎」「海崎」とも書かれており、いずれも読みは「あまがさき」と考えられます。「あま」という言葉は、今日では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においてはより広く、漁民・海民を意味していました。また、「さき(崎)」は岬にも通ずる言葉で、今日でも海に突き出た場所を指す際に使われます。

 つまり、漁民・海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来と考えられます。

 この港町尼崎が、近世には尼崎城の城下町となりました。近代に入ると、旧城下町を中心とした行政区域としての尼崎町が成立し、何度か周囲の村を合併して、現在の尼崎市となっていきました。

写真:摂津職河辺郡猪名所地図(尼崎市教育委員会所蔵)

 12世紀頃描かれたと考えられる、東大寺領猪名荘の荘園絵図。荘域の南には「長渚浜」「大物浜」といった地名が記されている。

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