近世の尼崎

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印刷 ページ番号1006720 更新日 2022年6月19日

尼崎藩の設置と尼崎城の築城

荻原一青画「尼崎城天守閣」

 近世に入ると、政治・経済・軍事などあらゆる面で、大坂が幕府の西国支配の最重要拠点となりました。その西に位置する尼崎は、軍事上、大坂の西を守る要(かなめ)の地として、幕府から重視されることになります。

 このため幕府は、大坂の陣ののち、元和3年(1617)に譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)を尼崎に配置し、新たに四層の天守を持つ本格的な近世城郭を築城させました。築城工事は元和4年(1618)に開始され、数年後に完成したものと思われます。

寺町の本興寺開山堂

 この尼崎城築城にともなって、城の建設地や中世以来の尼崎町にあった寺院が、城の西に集められて寺町となりました。寺町には今も11か寺が残っており、建物や収蔵品には文化財に指定されているものも多く、江戸時代以来の城下町の面影を現在に伝えています。

 寺町の南には武家屋敷町が配置され、また少し後には城の南の島に築地町が建設されて、近世城下町としての尼崎町ができあがっていきました。大坂から西国へと通じる中国街道が、城を南に迂回して城下町を通過していました。

写真上:荻原一青画「尼崎城天守閣」(『城郭画集成』より)
写真下:寺町の本興寺開山堂(平成6年8月、尼崎市広報課撮影)

尼崎藩の藩主と藩領

 尼崎城を居城とした尼崎藩の藩主は、初代が戸田氏鉄、その跡を継いで寛永12年(1635)から青山氏、宝永8年(1711)以降は松平氏(桜井松平)と、いずれも徳川譜代の大名でした。その領地は、戸田氏・青山氏が5万石、松平氏が4万石で、現尼崎・伊丹市域から現神戸市域の須磨まで海岸地帯一帯に広がっており、尼崎城下町に加えて、高い経済力を有する兵庫津や西宮町が含まれていました。尼崎城を守備する藩にふさわしい、豊かな領地が与えられていたことがわかります。しかしながら、松平氏が藩主であった明和6年(1769)、兵庫津・西宮町を含む灘目の海岸地帯は幕府にとり上げられ、かわりに播磨国赤穂郡・宍粟郡・多可郡に飛地が与えられました。

 一方、現尼崎市域は、江戸時代にはすべて尼崎藩領だったわけではありません。現在の園田地域は幕府領や旗本領などで尼崎藩領はなく、ほかにも藩領にまじって旗本領や大名飛地領などが点在しており、なかには同じ村を2人~3人の領主が分割して領地とする村もありました。

近世の尼崎地域

 近世の尼崎地域は、大坂近郊の流通の発達した先進地で、農業の面でも綿や菜種といった商品作物が盛んに生産され、米も酒米として商品化されていました。こういった商業的農業の隆盛を背景として、村々における新たな農地の開発や農業生産の増大が図られたほか、海岸部では大規模な新田開発が実施されていきました。尼崎地域では古代以来、大阪湾の沿岸潮流と武庫川・猪名川の運ぶ土砂の堆積によって海岸が南に進展し、その地を人々が開発して農地や町を築いてきましたが、江戸時代に至ってその流れが一層大規模で組織的となったのです。

 それと同時に、農業をささえる治水や水利も、整備されていきます。洪水を繰り返す武庫川の治水には、特に大きな努力が払われました。尼崎藩は、幕府から、武庫川・猪名川上流の西摂・北摂を担当する土砂留(どしゃどめ)大名を命ぜられ、山の管理や河川の普請にあたりました。

近松門左衛門の墓

 水運の面では、尼崎の港は古代・中世ほどの勢いは失ったとはいえ、神崎川・淀川を通って京と尼崎を結ぶ過書船や、大阪湾周辺を行き来する渡海船が盛んに往来しました。漁業や魚取り引きも盛んで、城下中在家町には魚市場があり、生魚問屋の取り引き範囲は瀬戸内海全域にまで及びました。

 文化の面では、久々知の広済寺が近松門左衛門の墓のあるゆかりの寺として知られており、今も多くの人が近松を偲んで訪れています。

写真:近松門左衛門の墓

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