中世の尼崎

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印刷 ページ番号1006719 更新日 2024年2月4日

荘園の支配

市域にあった主な荘園

 平安時代から中世にかけての尼崎市域では、地域ごとに開発が進み、さまざまな荘園がつくられていきました。そのなかには、平安時代に摂関家に柑橘を納める果樹園として出発した橘御園(たちばなのみその)のように、どこか1か所の領域にまとまっているのではなく、現尼崎市域から伊丹・宝塚・川西などにかけて広く散在していた荘園もありました。

 猪名川・神崎川の流域には、原始・古代の尼崎でとりあげた猪名荘・長洲荘、長洲御厨のほか、現豊中市域から戸ノ内にかけて広がっていた椋橋荘、猪名荘・長洲荘と隣接し、ときに争いをおこした浜崎荘、杭瀬荘、さらに下流域を領有した富島荘などがありました。

 比較的流れがおだやかで、人が住みやすい場所の多かった猪名川流域に比べて、土砂の流量が多く荒れることの多かった武庫川水系流域でも、この時代には開発が進みました。西昆陽荘、野間荘、武庫荘、富松荘、生島荘、大島荘(大島雀部荘)など、さまざまな荘園が存在したことが知られています。

 こういった荘園を領有していたのは、当時の摂関家などの貴族や、東大寺・鴨社・春日大社といった寺院神社などでした。領有権が譲渡され、領主がしばしば交替する荘園もありました。

図:市域にあった主な荘園(鎌倉時代、『尼崎地域史事典』掲載図をもとに作成)

大物と尼崎、港町の発展

正和3年(1314)「長洲御厨領家下文」

 平安時代の末に、長洲の南に形成された大物と尼崎は、やがて港町として発展してゆきます。瀬戸内海を通して西国から都へ輸送されるさまざまな物資が往来し、なかでも京や奈良の巨大社寺を造営する材木を西国から運ぶ中継港として、大物や尼崎の港は栄えました。尼崎は大覚寺や本興寺を中心とした、中世日本有数の自治都市でもありました。

写真:正和3年(1314)「長洲御厨領家下文」(大覚寺文書)

中世の戦乱と尼崎地域

 南北朝期から戦国期にかけての争乱の時代には、尼崎地方もしばしば戦乱の地となりました。鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった元弘の乱(元弘元・2年、1331・1332)や、それに続く建武の内乱(建武2年~、1335)、戦国時代の幕開けとなった応仁・文明の乱(応仁元年~、1467)など、この時代を代表する内乱に際しては、かならずと言ってよいほど尼崎でも戦闘が行なわれています。室町幕府の時代に、尼崎を含む摂津地域を守護として支配したのは、赤松氏や細川氏といった幕府の有力な武家でした。こうしたなか、古代以来の貴族や寺院神社による荘園支配は衰退していきました。

富松城跡

 また戦国時代には、尼崎城、富松城、塚口城といった城が、現尼崎市域に築かれました。このことからも、摂津地域の軍事拠点として尼崎地域が重要な位置を占めていたことがわかります。今日でも、富松城跡の土塁や塚口の旧集落を囲む環濠跡に、その名残を認めることができます。

 自治都市であった尼崎は、この戦乱の時代にも、大名の武力に屈せず抵抗することがありました。このため、応仁元年(1467)には周防など4か国の守護であった大内政弘に、また永禄12年(1569)には天下統一を進める織田信長によって焼き討ちにあっています。また尼崎地域は、信長に対抗した一向一揆の拠点でもありました。

写真:富松城跡

(「尼崎こんな歴史」のVol.5「ふたつの城を持つ中世都市・富松」もご参照ください。)

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