原始・古代の尼崎

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ページ番号1006718 更新日 平成30年2月21日

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尼崎平野はどのようにしてできたか

縄文から弥生時代の海岸線の変遷

 東を流れる猪名川・神崎川と、西を流れる武庫川に区切られた尼崎市域は、全体が平坦な尼崎平野を形成しています。この尼崎平野は、大阪湾の沿岸潮流や武庫川・猪名川が運ぶ土砂が堆積してできた土地です。この数千年ほどの間に堆積が進み、海退(注1)ともあいまって、海岸線が南下してできた平野ですから、比較的新しい土地と言えます。

 海進期であった縄文時代には、現尼崎市域の北部がようやく陸地化していたにすぎず、尼崎平野のほとんどが海の底でした。そのため、現市域では縄文時代の遺跡は発見されておらず、上ノ島(かみのしま)遺跡などでわずかに縄文晩期の遺物が出土しているにすぎません。

(注1)海退とは、地球規模の気候寒冷化にともなって極地の氷床が拡大し、さらに海水が収縮するため海水面が下降し、海岸線が海側に後退する現象です。反対に、温暖化にともなって海岸線が陸地側に前進する現象を、海進といいます。

図:上が縄文時代から弥生時代、下が古墳時代から奈良時代の海岸線の変遷(『尼崎地域史事典』掲載図をもとに作成)

古墳から奈良時代の海岸線の変遷

人が住みはじめる弥生時代

田能遺跡

 尼崎平野に人が住みはじめるのは、今から2千数百年以上前から始まると言われている弥生時代に入ってからのことです。このころには、海岸線が現在の阪急神戸線からJR東海道線あたりにまで南下していました。市域北部からは、大阪湾岸における弥生遺跡としてはもっとも古い遺跡のひとつである上ノ島遺跡や、大規模集落跡の発掘された田能(たの)遺跡、阪神・淡路大震災後に大型建物の柱跡が出土して話題となった武庫庄(むこのしょう)遺跡など、多くの遺跡が確認されています。このうち田能遺跡は史跡公園として整備されており、同公園内にある田能資料館では出土品などの展示を通して、田能遺跡について学ぶことができます。

写真:田能遺跡

古墳時代、古代の氏族

伊古太古墳(昭和41年撮影)

 3世紀半ばころからはじまると言われる古墳時代に入ると、大和・河内の大規模古墳群をはじめ、各地で古墳がつくられるようになりました。尼崎地域でも、4世紀後半の池田山古墳、5世紀の伊居太(いこた)古墳・御園(みその)古墳をはじめ、多くの古墳があったことが確認されていますが、都市化にともなって、現在ではその多くが墳形を失っています。さきの3つをはじめ、かつては多くの古墳が市域北部の塚口周辺から伊丹市域南部にかけて集中しており、塚口古墳群と呼ばれています。こういった古墳が集まっていた地域には、椎堂(しどう)、坂部(さかべ)、久々知(くくち)などといった、この地に住んでいた古代の氏族の名前に由来すると考えられる地名も散見されます。

写真:伊古太古墳(昭和41年撮影)

猪名川・神崎川河口の繁栄

小野利教画「神崎五人遊女塚由来絵巻」より

 延暦4年(785)の長岡京遷都に際して神崎川と淀川をつなぐ水路が開削されると、神崎川は都と瀬戸内・西国方面を結ぶ交通路となり、川船と渡海船を乗り換える河口の港が、重要な位置を占めるようになります。平安時代後期には、現尼崎市域の神崎・浜崎・今福・杭瀬といった港が栄えました。特に神崎は、当時の貴族をはじめとするさまざまな人々や物資が往来し、同時に遊女の集う天下第一の歓楽の地としても知られていました。

 神崎西方の海沿いの地は、奈良時代にはすでに田地として開発され、奈良・東大寺の荘園猪名荘となりました。さらに、猪名荘の南の長洲浜が漁村、港として発展し、平安時代後期には、この地を長洲荘として支配する東大寺と、魚介類を納める長洲御厨(ながすみくりや)を設置した京都の鴨社が領有権を争いました。

 平安時代の末になると、この長洲の南に大物(だいもつ)、尼崎といった新たな土地が形成され、中世にかけて港町へと発展していきます。

写真:小野利教画「神崎五人遊女塚由来絵巻」より(田中大庄次郎氏文書)

このページに関するお問い合わせ

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