豊かな歴史をもつ尼崎

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印刷 ページ番号1017013 更新日 2023年12月15日

紀元前から進んだ文化を持った人々が暮らし、古代から中世にかけては海陸交通の要衝として、近世には城下町として発展しました。近代に入ると日本有数の工業都市として栄えるなど、尼崎は歴史の中で、常に重要な位置を占めてきました。

弥生時代から、先進的な地域だった。

田能遺跡の写真

弥生時代の大集落跡「田能遺跡(国指定史跡)」からは、人骨とともに木棺墓が発見されたほか、銅剣鋳型など貴重な遺物をはじめとする大量の土器や石器が出土し、当時の先進的な暮らしぶりを知る貴重な手がかりが得られました。海岸線沿いの土地は、奈良時代以降荘園として開発され、流通の場として繁栄。荘園の領主は京都や奈良の貴族や寺社が多く、尼崎は当時から都とのつながりが深い地域でした。

西国から都への中継地点・大物

国周 文治四年摂州大物浦難風の図の画像
国周 文治四年摂州大物浦難風の図

源氏と平氏が激しく争った平安時代の終わりごろ、神崎川河口に近い大物は人や物資が行き交う港として栄えていました。兄・源頼朝と対立した源義経や弁慶たちが、九州へ逃れようと嵐のなか大物から船出して遭難した逸話は、能「船弁慶」や浄瑠璃・歌舞伎「義経千本桜」に取り入れられ人気を集めました。

秀吉が尼崎で危機一髪!ゆかりの寺も

備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、本能寺の変を知って京都に向けて大移動を開始。のちに「中国大返し」と呼ばれるこの強行軍では、尼崎にも足を踏み入れました。
伝説では、武庫川の草むらからキジが飛び立つのを見た秀吉は、待ち構える明智軍勢に気づいて進路を変更したとされ、この地は「雉ガ坂(きじがさか)」と呼ばれています。
また、秀吉が逃げ込んだとされる廣徳寺には、秀吉が僧に変装して難を逃れた逸話「味噌すり坊主」にまつわる品々のほか、朱印状、寺領目録などが残されています。

大坂の西を守る要、「尼崎城」築城

寺町

江戸時代初期、譜代大名の戸田氏鉄(とだうじかね)を藩主に尼崎城が築城されました。今の尼崎市や伊丹市から神戸市の須磨まで、海岸部を中心に広い領地を持ち、阪神間唯一の城下町が形成されました。
築城に伴い城の西側につくられた寺町には11の寺院が残されていて、当時の佇まいを現在に伝えています。

「尼崎市」の誕生とまちの発展

明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりましたが、産業・交通の発達など、徐々に近代化・都市化が進み、大正5年には尼崎市が誕生しました。
戦後は商店街の再建から活気を取り戻し、平成28年には市制100周年を迎え、「ひと咲き まち咲き あまがさき」を目指した新たな一歩を踏み出しました。

145年の時を経て、尼崎城再建

尼崎城

尼崎で創業した家電量販店の創業者の寄贈により、尼崎城が廃城から145年振りに再建され、平成31年3月29日にオープンしました。
江戸時代の城下町にタイムスリップできる「大迫力VRシアター」など、尼崎の歴史や文化を発見・体験できる魅力が満載。「来て・見て・触って・体験してもらう」ことで、いつまでも愛されるみんなの尼崎城を目指します。

歴史遺産を後世に伝える歴史博物館

歴史博物館の写真

尼崎がこれまでに収集した歴史・考古などの文化財を広く公開する博物館が令和2年10月10日にオープンしました。地域史料を見ることもできます。
旧尼崎高等女学校の校舎をリニューアルした、尼崎の歴史文化の拠点となる博物館です。
昭和の面影を伝える建物ですが、内装は全面改修。常設展示のほか、企画展も開催します。
尼崎の豊かな歴史や文化を理解し未来を展望する学びの場として、歴史遺産を後世に伝える役割を持つ博物館です。

このページに関するお問い合わせ

総合政策局 政策部 広報課
〒660-8501 兵庫県尼崎市東七松町1丁目23番1号 本庁中館2階
電話番号:06-6489-6021
ファクス番号:06-6489-1827
メールアドレス:
ama-koho@city.amagasaki.hyogo.jp(市報あまがさき等)
ama-koho2@city.amagasaki.hyogo.jp(あまっこ・AMANISM等)