近松の創作を支えたまち・尼崎(市報あまがさき平成26年9月号)

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ページ番号1007202 更新日 平成30年3月28日

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本市は、東洋のシェークスピアとも称され、日本が世界に誇る江戸時代の劇作家・近松門左衛門との関わりが深いまちです。近松と尼崎のゆかりについて紹介します。

近松が眠る尼崎

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広済寺(こうさいじ・久々知1丁目)には近松門左衛門の墓があります。近松は広済寺とどのような関わりがあり、ここに眠ることになったのでしょうか。近松記念館の古川九一郎館長(右写真)にお話を伺いました。

広済寺の再建に尽力

1706年、近松は54歳の時に長年住み慣れた京都から大坂へ移り住みました。大坂の船問屋・尼崎屋吉右衛門(あまがさきやきちえもん)の家をたびたび訪れては、商人や旅人たちから全国の話を聞き集めて、作品を書いていたと言われています。
また当時、南北朝時代の戦乱の被害により廃寺同然だった広済寺を住職・日昌上人(にっしょうしょうにん)が再建しましたが、日昌上人の実家が尼崎屋吉右衛門の家であったことなどから近松も再建に尽力したと推察されます。広済寺の建立本願人(こんりゅうほんがんにん)として近松が署名・押印した資料も残っています。

尼崎での執筆活動

近松は、再建後も広済寺を訪れたであろうと考えられています。船で大坂から神崎まで来て、そこから有馬道(みち)(注)を約2キロメートル歩き、日帰りで広済寺にお参りしていたのではないでしょうか。広済寺の裏には、「近松部屋」と呼ばれる仕事場が明治時代末まであり、近松はそこで執筆活動をしていたとされています。広済寺の周辺は田園が広がっていて、静かで執筆活動がしやすかったのでしょう。
こうした縁があり、近松の母が亡くなった時には、供養として、色紙と和歌集を寄進したと伝えられています。また、近松とその母の法要は、広済寺で行われました。それを記載した過去帳が現在も広済寺に残っています。
近松と広済寺との親交の深さをうかがわせる資料が、当館にはたくさんありますので、ぜひご来館ください。

注) 有馬道 有馬道と呼ばれた道は複数ありますが、ここでは、伊丹・宝塚市を通って有馬へと向かう道を指します。

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広済寺の再建時に署名・押印した資料の複製

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「近松部屋」にあった机や硯(すずり)など

近松ゆかりの地散策マップ

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(1)硯モニュメント
大人の背丈ほどある石碑で、「近松部屋」にあった硯や、浄瑠璃の本(床本(ゆかほん)をモチーフに制作されました。浄瑠璃の本には、「曽根崎心中」の名文が書かれています。


(2)園田学園女子大学 近松研究所
近松が活躍した近世の演劇芸能を中心に研究。近世全般に関する書物などが閲覧できます。
開室時間は午前10時~午後5時。詳しくは同研究所(電話番号06-6429−9928)へ。

(3)近松のお墓(広済寺) 
墓石の表面には近松と妻の戒名が、裏面には近松の亡くなった日付が刻まれています。昭和41年9月に国指定史跡になりました。


(4)近松記念館
近松とその母の過去帳の複製や、「近松部屋」にあった机・硯など、近松と尼崎のゆかりを示す貴重な資料が多数展示されています。
開館時間は午前10時~午後4時。入館料は大人200円、中学生150円、小学生100円。詳しくは近松記念館(電話番号06-6491−7555)へ。水曜・第2日曜日休館。


(5)梅川(うめがわ)の像
文楽人形のイメージで制作された「冥途の飛脚(ひきゃく)」のヒロイン「梅川」の像。制作には人間国宝の文楽人形遣い・吉田文雀(ぶんじゃく)さんに指導いただきました。

このページに関するお問い合わせ

総合政策局 政策部 広報課
〒660-8501 兵庫県尼崎市東七松町1丁目23番1号 本庁中館2階
電話番号:06-6489-6021
ファクス番号:06-6489-1827
メールアドレス:

  • ama-koho@city.amagasaki.hyogo.jp (市報あまがさき等)
  • ama-koho2@city.amagasaki.hyogo.jp (あまっこ・尼ノ國等)