戦後70年 戦禍と復興を振り返る(市報あまがさき平成27年8月号)

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ページ番号1007196 更新日 平成30年3月28日

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昭和21年の杭瀬商店街付近の様子(中田寅一氏提供)

終戦から70年経ち、戦争を体験し、それを語り継ぐ人も減ってきています。今月号では、市内で空襲を体験した人や、本市の戦後の復興を見守ってきた人に話を伺い、戦前から戦後にかけて、尼崎のまちがどう変わってきたのか振り返ります。

尼崎でもあった空襲

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市内でも、大規模な空襲があり、多数の被害が出ました。市内で焼夷弾(しょういだん)による空襲を体験した妹尾昭さんに当時の暮らしや空襲の様子について伺いました。

戦況が急激に悪化し、尼崎にも爆撃機が飛来するようになったのは昭和20年ごろでした。
私は工業専門学校4年生(16歳)で、現在の武庫川町2丁目辺りに両親と住んでいました。
自宅にいるときに空襲警報のサイレンが鳴ると、電灯を覆い、家の所在が爆撃機に感知されないようにして、防空壕(ぼうくうごう)に向かいました。でも、防空壕は造った人とその家族が優先で、私たち家族はなかなか入れませんでした。
当時、国民学校初等科(現在の小学生)までの子どもは集団疎開し、それ以上の年齢の人の多くは学徒動員されたり、特攻隊や士官となって戦地に赴いたりしていました。私の弟も集団疎開で北条町(現在の加西市)にいました。
私自身は飛行機の部品を製造する明石にあった工場で働いていました。そのころ、食料は配給制でしたが、昼には豆かすや麦を混ぜたものと芋づるを炊いたものが給食として配られたのを覚えています。
国鉄(現在のJR)明石駅から工場に向かう途中、たった数メートル先を歩いていた友人が機銃掃射に遭い、亡くなるという体験もしました。誰もが死と隣り合わせで、辛うじて生きている状況でした。


多くの工場をはじめ、住宅も空襲に遭った

市南部には発電所や軍需工場が多く、また、現在の丸島町には高射砲(航空機を狙撃する砲)があり、空襲の標的とされました。陸軍の石油タンクを狙った空襲のときには、武庫川の河川敷が火の海になったのを鮮明に記憶しています。
昭和20年夏には大規模な空襲が8回ほどありました。市内の全焼・全壊した戸数は1万を超え、死者は479人に及んだと聞いています。今でも当時の映像を見て空襲を思い出すたび、平和で豊かな戦後の生活をありがたく思います。

産業のまちとして返り咲く

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空襲が激化する中、市外に疎開し、終戦後に市内に戻った人も多くいました。その一人である羽間美智子さんに、戦前、戦後の尼崎のまちの変遷を語っていただきました。

明治時代の尼崎紡績(現在のユニチカ)の創業以来、尼崎は産業のまちとして発展してきましたが、戦前の大物町には、しょうゆの醸造所がたくさんあり、匂いが漂っていました。私が住んでいた杭瀬南新町4丁目の辺りから幼稚園に通う途中だったので、よく覚えています。また、当時、市臨海部には鉄鋼業などの重化学工業の工場や火力発電所などが立地し、九州や四国などから、働き口を求めて次々と人が転入してきました。市役所などがあった城内地区や、現在の国道43号沿いに2キロメートルほど続く、魚屋や呉服店、芝居小屋などが建ち並んだ東・西本町通りは多くの人でにぎわっていました。

空腹と闘った疎開時代

空襲が激しくなってきた昭和19年、私は中谷村(現在の猪名川町)に集団疎開しました。長洲国民学校4年生(11歳)でした。疎開先では、約80人の同級生が4つの寺に分かれて住み、中谷国民学校の一部を借りて授業を受けました。食料が乏しいのが辛かったですね。勉強は休んで、先生も一緒にノビルなどの山菜を採っておかずにしました。秋にはイナゴを捕って食べました。歯磨き粉や絵の具をなめる子どももいました。

焼け跡の尼崎へ帰る

玉音放送があった日は登校せず、お寺にいました。何か重要なことがラジオから流れている、と思いましたが、聴かせてもらえませんでした。終戦と聞いても悲しくはなく、むしろ「家へ帰れる」と喜びました。
しかし、実際に尼崎へ帰れたのは、終戦から3カ月後の11月でした。長洲国民学校に帰ると、親が待っていました。家に帰って最初にしたことは、疎開先で頭に湧いたシラミ退治でした。

産業のまちとしての復興と人口流入

とにかく、戦後は物がありませんでした。食料は配給制でしたが、配る物がない、という状態で、闇市が盛んでした。しかし、やがて物資が出回り始めると、闇市は商店街に様変わりしていきました。戦中に防火帯を作るため、取り壊された東・西本町通りの商店主が中心となり、尼崎中央商店街が形成されたのもこのころです。
市南部を中心に、製鉄や紡績、製紙工場が稼働し、昭和20年代から30年代半ばにかけて、九州や中国・四国から工場や商店に職を求めて、毎年8千人から1万4千人が転入したと考えられています。昭和21年に17万人程度だった人口が昭和35年には40万人を超えました。
昭和27年に出来たセンタープールが盛況だったことが印象に残っています。その収益も復興に一役買ったと思います。

歴史から学び、住み続けたいまちに

この70年間で、JR尼崎駅の周辺など、市内でも大きく変化した場所がいくつかあります。かつては城下町だった尼崎ですが、時代の変化とともにその姿を変えてきた歴史があります。その長い歴史の中から、いろんな教訓を学びとって、これからも産業を一つの基軸として、さまざまな地域から移り住む人々を快く迎え、長く住みたいと思ってもらえるまちであってほしいですね。

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阪神尼崎駅南側の駅前広場(昭和30年代前半撮影)

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三和本通り商店街の歳末のにぎわい(昭和39年撮影)

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昭和12年、銑鉄(せんてつ)を自給するために開設された尼崎製鉄所(昭和44年、片岡敏男氏撮影)

被爆体験を記録したDVDの貸し出しを行っています

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広島や長崎で被爆し、現在は小学校などで、平和の大切さを伝えるため、語り部活動を行っている尼崎市原爆被害者の会の皆さんがその体験をDVDに収録しました。DVDは貸し出しできます。

尼崎市原爆被害者の会の語り部活動は平成11年から始まり、講演回数は延べ90回、視聴者数は延べ約7000人となっています。
しかし、終戦から70年が経過し、語り部活動のできる人が年々少なくなっています。
そこで、その体験と平和への思いを継承するため、DVD「忘れてはならない夏がある 原爆を見た日」が制作されました。DVDには、被爆者の語りや戦前の広島、長崎の写真などが収められています。
DVDは、市役所中館7階尼崎人権啓発協会で貸し出しています。詳しくは同協会(電話06-6489-6815)へ。

編集後記

今月号では、戦後70年ということで、市内で戦争体験をした妹尾さんと羽間さんを取材した。戦争当時、瀬尾さんは16歳、羽間さんは11歳。

自分がその年齢のころ、どういった生活を送っていたのかを思い返してみると、学校に通って授業を受けて、友達とサッカーをしたりと、平和な日常を送っていたように思う。友達を空襲で亡くしたり、食べ物に困ったりといった経験をしたことがない。厳しい時代を生きぬき、戦後も、焼け野原から復興させていった人がいる。彼ら、彼女らの話を聞くことで、普段は当たり前になっている平和の尊さについて想い直すことができると思った。

(担当F)

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総合政策局 政策部 広報課
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