小田の歴史さんぽ

小田の旧跡や名所などについて、ご案内いたします。
ぜひ、小田へお越しの際には、まちのあちらこちらで見られる歴史を楽しんでください。
金毘羅さんの石灯籠

昔、航海の安全を図るため、神崎の津に木製の燈台が置かれていましたが、港が下流に移り燈台が廃止されました。1804年に、小田村、岸田屋治兵衛等が中心となり、神崎の津の問屋仲間や宿屋主などが寄付をして今の石灯籠を建てました。竿の中央には海の安全を祈願し、金毘羅大権現と刻まれています。
(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
遊女塚

1207年(建永2年)の春、法然上人が讃岐へ流罪の途中、神崎の津に立ち寄られた。5人の遊女(宮城野、大仁、小倉代、刈藻、忍)は上人の法話を聞き、入水自殺をした。村人は哀れんで、川辺に塚を建てて供養をしました。大江匡房は「遊女記」の中で、神崎は「蓋し天下第一の楽地なり」と書いています。
(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
廣濟寺

1714年(正徳4年)日昌上人が再興したお寺です。廣濟寺には、江戸時代の劇作家、近松門左衛門の墓所があります。
詳しくは、ちかまつ・文化・まち情報課のホームページをご覧いただくか電話でお問合せください。
電話は6489-6385です。
管公足洗いの池

延喜元年、菅原道真公が筑紫へ流罪の途中、長洲の地に逗留された。そのとき今の長洲天満宮境内の小池にて足を洗われたとか。また管公は鶏を愛し、管公筑紫への出発のときを延ばしたと、言い伝えられる。以後この地にては養鶏と葱の栽培をしないと言われる。長洲小学校校庭には管公「船繋ぎの松」が残されている。
(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
残念さんの墓

元治元年、長州藩の中間、山本文之助は禁門の変で薩長武士として京都で戦った。形勢不利となり、何とか国へ報告をと守りの堅い関所を逃れ、神崎川から辰巳の船着場まで来たが、囚われの身となり、その獄中「残念じゃ、残念じゃ」と大声で叫び自決した。村人たちは大いに同情して墓標をたて、供養した。
(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
近松門左衛門墓所(久々知1丁目4)
日本のシェークスピアと言われる偉大な劇作家で、その墓所は久々知廣濟寺にある。近松は、当時親交の深かった日昌上人を訪ね、執筆活動を続け、「曽根崎心中」など名作を残した。享保9年(1724)72歳で没す。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
矢文石(久々知1丁目3)

久々知須佐男神社(妙見社)、天徳元年多田(源)満仲公権進による妙見社境内にある。由来不明なるも、一説に源満仲公この石に足を掛け、弓を射たところ、その矢の落ちた場所が、今の川西多田地区であったと。ここを多田源氏の発祥という。(多田神社)(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
馬橋(次屋2丁目13)

荒木村重を討とうとした若者が逃げる途中村人に見つかり、密告され、白馬とともに殺された。亡骸は橋の袂に埋められた。それ以後、村人この橋のところに来ると白馬と若武者が現れ、人々を驚かせた。村人が白馬と若武者を丁重に葬ると以後亡霊は出なくなったと。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
猪名庄遺跡(潮江1丁目16)

潮江再開発の折、掘削途中に縄文・弥生時代の遺物を発見。「東大寺領猪名庄絵図(天保勝宝8年)」の場所として、奈良時代の荘園にかかわる遺構を発見した。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
神崎川(神崎町)

延暦4年(785)長岡京遷都から、神崎川(旧三国川)淀川が直結され、都と西海を結ぶ水路として大いに利用されてきた。また平安後期から鎌倉時代にかけて、漁船・遊船・渡し舟など賑やかに往き来する、神崎の津として栄えた。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
宿場町神崎(神崎町)

神崎の宿は中国街道・有馬街道の基点として、その宿場町として栄えた。元この地には本陣がおかれ、札場が設置されていた。問屋・宿屋が軒を連ね、一大歓楽街でもあった。今は寂しい町ではあるが、幅の広い大通りが当時の面影を残す。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
尼崎藩領界碑(西川2丁目13西川八幡神社内)

この領界碑は、注連柱(しいめばしら)の移建中(昭和60年8月2日)に発見され、地元の人の談話から判断すると、旧西川村にあった3基(旧字桶之口・新堤・山ノ下)のうちの桶之口にあったものと考えられます。
同村は旧中国街道筋にある尼崎藩領で、東方は神崎村(藩領)と連なり、西方は次屋・浜両村(旗本青山知行地)と接し、南方は常光寺村(大和国小泉藩領)に接していました。大阪を重視する政策により、市域内には藩領と他領が入り交じる入組領が多くできました。
碑文は全長240センチ、碑幅18.5~20センチの花崗岩立柱型で、三面刻の字体・寸法いずれもいままでに現認された11基(尼崎市域2基・伊丹市域・西宮市域・芦屋市域各3基)と全く同型です。ただ、「他域」の刻字がこの碑では異字体の「佗領」と刻字されています。
宝永8年(1711)の松平氏入封(にゅうぶ)間もなくこの時期に、入組領の多い川辺・武庫郡西部及び莵原都内に建立され、明和6年(1769)上地(あげち)後は整置されたものと思われます。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)
義人弥次右衛門の碑(次屋1丁目)

旗本青山の所領であった、次屋・浜・潮江村百姓は代官の悪政に抗議し、直訴をした。浜村庄屋弥次右衛門は江戸送りとなり、元文4年(1739)江戸にて獄死した。義民伝中の人。碑は次屋の伊邪那岐神社境内にある。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
金楽寺貝塚(金楽寺2丁目17)

吉備彦神社境内裏にあり、奈良時代から鎌倉時代の貝塚遺跡で、無数の貝殻のほか、土錘、緑釉陶器、皇朝十二銭が出土した。この地が都と関係があり、貨幣による経済活動をした漁民集落であったと考えられる。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)
寺江亭跡(杭瀬寺島2丁目1)

平安時代末、平氏政権の有力者の五条権大納言藤原邦網が築いた別邸が寺江亭です。彼の娘が六条・高倉・安徳天皇三代の乳人(めのと)でしたので、清盛の下で権勢をふるうことができたのです。
邦網は、神崎川の川尻に別荘をもち(寺江にあったので寺江亭と呼ばれる)、多くの貴人らを招いていました。寺江は尼崎にちかい大物とも考える説がありましたが、尼崎より約2キロメートルの地と記された当時の日記もあり、塩野義製薬株式会社の工場建設のときに、かなりの礎石が採取されましたので、当地が跡地と推定されています。また、建物の創建は、治承3年(1179)から4年にかけてのものとみられています。
記録によると、川から直接邸内へ舟に乗ったまま入ることができ、建物の豪華さは、京都の屋敷にひけをとらないと記されています。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)
左門橋?左門殿橋?

左門殿川は治水工事で秀でた尼崎藩主戸田左門氏鐡公が開削されたもので、公の名前が付けられている。尚、佃島へ渡る橋も杭瀬からは左門殿橋と名付けられていた。何故か現在は左門橋となっている。(尼崎市・小田村合併70周年記念誌より)なお、近くの阪神バス停留所の名前は「左門殿橋」になっている。
東洋紡績神崎工場跡(今福1丁目)

明治33年(1900)1月に設立された大阪合同紡績株式会社は、大正2年(1913)、この地に神崎工場を建設し、翌年から操業を開始しました。大阪合同紡績株式会社は、昭和6年(1931)3月に東洋紡績株式会社に合併され、神崎工場も同社の工場となりました。同年の神崎工場は、敷地面積約30万平方メートル、労働者数3千数百人におよぶ大工場でした。昭和20年(1945)6月15日、尼崎市は大空襲をうけ、神崎工場も被災し、工場は全焼しました。戦後、工場の一部は厚生施設として利用されましたが、昭和25年(1950)4月に閉鎖されました。その後、工場の跡は兵庫県住宅供給公社杭瀬団地となり、現在に至っています。(尼崎市教育委員会設置の説明板から転記)
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