尼崎ものづくり産業の歴史

ツイート
シェア
LINEで送る

ページ番号1006246 更新日 平成30年2月21日

印刷大きな文字で印刷

軍需産業の発展

尼崎港口出典:尼崎市立地域研究史料館所蔵「絵はがき」

1929年の株価大暴落に端を発した世界規模の恐慌で、紡績業は大きな打撃を受けたが、重化学工業は順調に発展し、1930年代には軍需の高まりによって鉄鋼業や化学工業が大きく成長しました。また浅野財閥による尼崎築港株式会社によって、工業地を造成することを目的に、南部海岸一帯(平左衛門町、扇町、末広町、中浜町、東海岸町)51万7千坪の埋め立てが行われました。また、尼崎港の誕生や、大型火力発電所の建設など工業基盤の整備がいっそう進んだために、関西共同火力発電所(現関西電力)設立をはじめとするインフラ整備が進み、尼崎製鋼所と尼崎製鉄(後に神戸製鋼所)、日本亜鉛鍍(現日新製鋼)などの大工場と関連中小企業が増加しました。
第2次世界大戦による戦災によって、軍需産業を中心とした尼崎市の産業は大きな打撃を受けました。しかし1950年の朝鮮戦争の開始以後、鉄鋼を中心とした尼崎の産業は特需ブームで息を吹き返しました。

中小企業の増加期

国における産業振興政策に乗って、尼崎の産業も発展を続け、阪神工業地帯の中核的存在となっていき、1960年代には大規模工場の発展とともに、従業者数30~100人の中小工場が急増しました。工場用地として地価が合理的な水準にあったことと、関連産業の工場集積によるビジネスチャンスの豊富さや生産活動の円滑さなど良好な開業条件を備えていたためです。
尼崎の産業は戦前に続く二度目の繁栄期を迎えることとなり、人口も1965年には50万人を突破し、我が国有数の大都市となりました。

停滞期

 高度経済成長時代に成長した尼崎市の産業も70年代に入ると製造業の停滞が始まりました。それまで増加を続けてきた製造業事業所数が1970年代半ばから以降から頭打ちの状態になり、大規模事業所での人員削減や工場規模の零細化が進んだ。全国の製造品出荷額に占める尼崎市の地位は、1960年の7位から、70年8位、80年13位、90年15位、99年21位へと徐々に下降していきました。
 こうした製造業の停滞原因は、

  1. 基礎素材型関連事業所がオイルショック等に起因し、世界的不況を受けたこと。
  2. 各企業の生産拠点である工場の生産設備の老朽化および敷地の狭隘さによって、企業内での位置付けが主力から補助的なものへと変化したケースがあったこと。
  3. 自動車、コンピューターなどの加工組立型産業の集積が乏しく、成長業種を輩出できなかったこと。

  などの要因が重なったとの分析があります。

現代

  バブル崩壊後の長期にわたる景気低迷により、近年に移転・閉鎖した工場跡地において、製造業以外の土地利用が進行しています。特に内陸部の工業地の一部では複合商業施設や住居系へと利用転換が進んでおり、工業専用地域においては大規模遊休地が出現していました。
  平成14年に「工場等制限法」が廃止され、これまで新設ができなかった大規模な工場を建設できるようになりました。 また、経済状況は企業収益の改善や設備投資の増加を背景に緩やかな回復を続けて、引き続き底堅く推移していくものと見込まれており、ものづくり尼崎として、ふたたび注目されています。

このページに関するお問い合わせ

経済環境局 経済部 経済活性課
〒660-8501 兵庫県尼崎市東七松町1丁目23番1号 本庁中館7階
電話番号:06-6489-6670
ファクス番号:06-6489-6491
メールアドレス:ama-keikatsu@city.amagasaki.hyogo.jp