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田能遺跡(たのいせき)

遺跡の発見と緊急調査

緊急調査の様子

 昭和40年9月、尼崎市田能(たの)字中ノ坪(現在の田能6丁目)一帯で行われていた尼崎・伊丹・西宮三市共同による工業用水園田配水場の建設工事中に大量の弥生土器が発見されたことから、この場所に大規模な弥生時代の遺跡があると推定され、すぐさま協議が行われました。
 しかし、当時の日本は高度経済成長の真っ只中で、配水場建設は阪神工業地帯に欠かすことのできない一大プロジェクトだったため、また、当時の尼崎市は工業用水としての地下水の使用による地盤沈下に悩まされていたため、工事は緊急性が高いものでした。
 それらの事情から、工事を中断して発掘調査を行うことはできず、工事車両に追われながらの緊急調査が10月から開始されました。
 調査は、「ブルドーザーに追い立てられながら‥‥」「土器がバリバリと壊されていく」などすさまじい中で、寝る間も惜しんで行われました。

次々と見つかる新発見の遺構

発見された遺構

 調査により、住居跡やたくさんの柱穴や土坑、溝、墓などの遺構が貴重な遺物とともに発見され、田能遺跡が弥生時代のほぼ全期間に及ぶ大集落跡であったことが確認されました。 
 なかでも、弥生時代の確実な木棺墓の発見は、田能遺跡がはじめてのことでした。木の棺は腐りやすいなど残っていることが少なく、それまで弥生時代の人が木の棺に葬られていたことは人骨や木の痕跡などから推定されていましたが、弥生時代の木の棺と人骨が一緒に見つかったことは、弥生時代の墓制の一端を明らかにしたとして注目を浴びました。
 木棺墓のほか木蓋土壙墓や土壙墓・土器棺墓・方形周溝墓など、17基のさまざまな種類の墓が同じ遺跡内に営まれているという事実や、中には装身具を身に付けた遺体の発見などは、当時ほとんどわかっていなかった近畿地方における弥生時代の墓の形態や埋葬状況を明らかにし、弥生時代の人々の社会関係を知る端緒となりました。
 そのため、尼崎市は調査期間の延長を決定し、昭和41年2月には尼崎市田能遺跡発掘調査委員会を発足させて調査の体制が整えられていきました。 

保存運動から田能資料館開館まで

有志による調査の参加から保存・整備まで

 田能遺跡の発掘調査には、一般市民や学生など多くの有志の方々の参加がありました。調査費の少ない中で、手弁当での参加や炊き出しなどの協力を得て、貴重な発見が続きました。次第に新聞・テレビを通した報道が行われるようになり、遺跡に対する関心がさらに全国に拡大していきました。
 しかし、この遺跡は、配水場建設のため調査終了後に破壊される予定となっていました。これに対し、市民の間では遺跡を破壊から守り永久保存を訴える声が高まり、遺跡の重要性をうったえる講演会や保存の署名運動などが進められました。昭和41年6月、尼崎市は配水ポンプ室建設予定地を変更し、重要な遺構・遺物の出土した第4調査区を中心とした約5,200平方メートルの保存を決定しました。
 保存された部分は約3メートルの盛土で保護し、昭和42年から3年計画で公園ならびに田能遺跡から出土した遺物の収蔵・展示棟をもつ田能資料館として整備されました。
 この間、昭和44年6月30日には国の史跡に指定され、 昭和45年7月25日に田能資料館として開館しました。
 

情報の発信元

尼崎市立田能資料館(たのしりょうかん)

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電話番号
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ファックス
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