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尼崎の文化財

尼崎の指定文化財 尼崎の指定文化財

豊臣秀吉朱印状 とよとみひでつぐしゅいんじょう 豊臣秀次朱印状

豊臣秀次朱印状
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  • 指 定 尼崎市指定文化財
  • 種 別 古文書
  • 数 量 1幅
  • 所在地 尼崎市東七松町1-23-1
  • 所有者 尼崎市
  • 指定日 平成28年3月29日
関白豊臣秀次が、文禄3年(1594)の前左大臣近衛信輔(このえのぶすけ)の薩摩配流に際して出した4月13日付けの命令書です。来たる15日に尼崎に到着する信輔のために、日向細島(現宮崎県日向市)まで送る船と加子(かこ)(水夫)を準備するよう、石川久五郎光元(いしこきゅうごろうみつもと)に命じています。
豊臣秀次(1568-95)は秀吉の後継者として養子となり、天正19年(1591)12月に関白に就任しましたが、文禄2年(1593)8月の秀頼の誕生以降、秀吉との関係が悪化し、同4年7月、謀反(むほん)の疑いで高野山に追放され切腹しました。秀次は約3年半の関白在任期間を中心に、年次が判明するものとしては約200通の朱印状を発給していますが、処断される前年の文禄3年に発給されたものは、本資料を含めて約10通に激減しています。
近衛信輔(1565-1614、後に信尹(のぶただ)と改名)は豊臣秀吉の怒りをかい、薩摩坊津(ぼうのつ)(現鹿児島県南さつま市)に配流されました。自身の日記『三藐院記(さんみゃくいんき)』によれば、尼崎には川船で4月15日午後に着き、翌日、海船で九州に向かっています。配流の実務処理には秀次があたり、側近駒井重勝(こまいしげかつ)の日記『駒井日記』4月12日条にも同文、同宛先の朱印状が引用されています。
宛名の石川光元(?-1601)は秀吉の馬廻(うままわり)組頭で、直轄地の代官や検地の実施、朝鮮出兵時の船舶の手配、材木等の資材輸送に従事しており、尼崎での船舶の手配は、豊臣政権を実務面で支えていた能吏にふさわしい任務であったといえます。光元は関ヶ原の戦いで西軍に属し、改易(かいえき)され翌年没しましたが、子の光忠(みつただ)が徳川家康に召し出され、子孫は尾張藩家老を務めました。
鎌倉時代以降、尼崎は淀川-神崎川の河川交通と瀬戸内海の海上交通の中継地として船舶の往来が盛んになりますが、本資料は安土桃山時代においても引き続きその機能が維持されている具体的な様相を示すものとして貴重です。これまで『駒井日記』に引用されるかたちでしか存在が知られていなかった朱印状の正文(しょうもん)(原文書)であることも注目されます。また、近衛信輔の薩摩配流は豊臣政権に深刻な動揺を与えた秀次事件との関連が指摘されており、このような政治的な事件に関わる資料としても重要であり、学術的な価値が高い資料といえます。
秀次朱印状釈文
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